見ました。公式のトレーラー程度のネタバレに抑えて、レビューしてみたいと思います。
まずなんか、アメリカのレビューサイトで、一般人の高評価と専門家の低評価とで両極端な結果が出た……らしいという事で話題になりましたが、んなモン、飯のタネにできる程度に高度なオタクの見方が一般人と違うのは当たり前でしょう。そもそも。
既に多くの人がレビュー動画を……って、間違えた。これじゃない。
こんな感じに色々とアップロードされています。
国内のレビュワーの様子を見ると、おおむね評判は良さそう。
私はマリオのゲームといえばマリオカートぐらいしかマトモにやった事ありませんし、言うてそこまで関心無かったのですが、たまたま友人が誘ってくれたので、見に行くことに。
それで、見た感想を一言でいうならば、表題の通りになります。この映画は、究極の「内輪ウケ」映画です。
作中には、マリオを知らなければわからないネタが大量に含まれています。むしろ、マリオを知らなければわからないネタしかありません。流石にプレイ経験が無ければ絶対わからないという事はありませんが……。
はっきり言って、脚本は粗末です。意外性もありません。メッセージ性もそれほどありません*1。これがマリオの映画ではなく、たとえばもっと別の、ワリオランドとかゼルダとかパルテナとかメトロイドとかファイアーエムブレムとかで、こういう映画化を行ったら、多分、非難轟々だったでしょう。
本作は、随所に「マリオのゲームをプレイした事が無いとわからないネタ」や、「マリオのゲームをプレイした事や、少なくとも、プレイしている様子を見た事があることを前提にした展開」があります。この映画をきっかけにマリオの存在を初めて知った、という人は、見ててポカンとしてしまうでしょう。
ただ、本当にそんな事があるのでしょうか? 本当に、この映画きっかけでマリオの存在について初めて知る人間なぞ、乳幼児や高齢者を除けば、この世にいるのでしょうか?
マリオは、1981年にアーケードゲーム「ドンキーコング」のプレイヤーキャラクターとして誕生しました。コンシューマー(家庭用)ゲームとしては1983年に初めてマリオの名を冠したゲームソフト「マリオブラザーズ」が、ローンチタイトルのひとつとして発売されました。1985年には、ゲーム業界における金字塔のひとつである「スーパーマリオブラザーズ」が日米で発売され*2、社会現象に。
仮にスーパーマリオブラザーズ発売当時(1985年)に10歳だったとして、2023年の今は48歳になっている計算です。よほど特殊な家庭環境でもなければ、48歳以下のアメリカ人と日本人であれば、マリオの存在自体を全く知らないなんて事は無いでしょう。
まず本作は、ストーリー面で特殊な事は一切やってません。物語の展開は、とてもわかりやすいです。もちろんストーリー上でもマリオを知らないとわからない「身内ネタ」が大量に含まれるのですが、細かい部分を除けば、たとえマリオのプレイ経験が無かったとしても、マリオの存在を知っていたりあるいは遊んでいる様子を見た事が少しでもあるなら、充分理解できます。
もちろん、マリオのゲームを実際にプレイした事があるならば、マリオについて色々な知識を持っているならば、色々な演出や映り込んでいる色々なものの意味がわかるようになって、一層楽しめるでしょう。
そう、本作においてマリオは教養なのです。
映画に限らず、おおよそ作品というものを理解するためには、その作品に含まれる要素をちゃんと読み取る能力、つまり教養が必要です。哲学的なテーマを有する作品であれば、その哲学的な議論について、社会問題を題材にした作品ならその社会問題について、ちゃんとした知識を持った上で評価することが求められます。
本作の場合、ゲームの内容やありがちな体験を、シェイクスピアや三国志、源氏物語のように引用しています。一般人、ことにゲーマーの評価が高く、プロの映画評論家の評価が低い原因の一端は、ここにあるんじゃないかと思います。つまり、映画評論家達は、本作に限っては、シェイクスピアも過去の有名な演劇や映画の知識も一切ない状態で評論させられているのと同じ状況なわけです。あくまで本作に限りますが、映画の内容を読み取ろうとするにあたり、映画評論家よりゲームのレビュワーの方が「教養」があるような状態に陥っていることが、本作を映画として評価することの難しさに繋がっているのではないでしょうか。
もちろん任天堂も宮本氏も、映画産業や映画文化を否定している訳でもそんな事をする気も無いでしょう。しかし冷静に考えて、シェイクスピアや三国志や源氏物語を読んで知っている人よりも、マリオのゲームをプレイして知っている人の方が圧倒的に多いわけです。そのような意味においては、むしろ、旧来の映画の「高尚な」教養の方が「内輪ウケ」である可能性すらあるのかもしれません。
そうであるならば、マリオのゲームをプレイした事のある人達向けに、彼ら彼女らが満足するように、きっちり作る。マリオならそれが許されるのだから。……きっとそんな戦略だったのでしょう。そしてそれが実際に高度に行われたために、前述のような評価になったのでしょう。
さて、ここまで話題になり、多額の興行成績をたたき出した作品ですから、資本主義の論理に基づけば、続編の製作が期待されるところです。最初から続編を想定していたのか、未回収になっている伏線がいくつかあります。次回作はその伏線を活用した作品になるかもしれません。
ところで任天堂は、ゲーム作りにおいて「遊び」にとてもこだわる会社です。どんなにヒットした作品であっても、新たな「遊び」が作れないのであれば、安易な続編を作る事をまずしない会社です。その思想を映画にも反映させるならば、マリオの続編は、なかなか苦労するかもしれません。
今作は、脚本から何から全て、マリオの歴史におんぶだっこになっていました。それゆえの面白さもありましたが、続編での二番煎じは、任天堂としても避けたい所でしょう。そうなると、映画評論家も満足できるような、より重厚な物語が求められるでしょう。もちろん、一般の人々やゲーマーも満足できる内容を維持しつつ。
続編が公開されたその時、本作は改めて評価の舞台に立たされる事でしょう。